1993-94シーズン、NBAは大きな転換期を迎えた。当時、絶頂期にあったマイケル・ジョーダンがシーズン前に突然の引退を発表すると、それまで続いていたシカゴ・ブルズの連覇が3でストップ。ジョーダンが現役復帰後に再び3連覇を達成するブルズだが、長く続くと思われた王朝が一時的な終幕を迎えた。 3度目となる「NBA Japan Games」が開催されたのはその翌シーズンだった。レギュラーシーズンの開幕戦としてポートランド・トレイルブレイザーズとロサンゼルス・クリッパーズが対戦したこのシリーズでは1992年バルセロナオリンピックで金メダルを獲得した、“初代”ドリームチームのメンバーの1人が日本の地へ降り立った。ジョーダンと同じシューティングガードであることから、ライバルとして比較されたクライド・ドレクスラーである。
スラムダンクコンテストには歴代最多の5度出場。グライダー(滑空機)と例えられる滞空時間の長い美しいダンクがトレードマークで、“クライド・ザ・グライド”の愛称でも親しまれたNBA屈指のダンカーだ。 そんなスーパースターを中心としたブレイザーズは、ドレクスラー以外にも一癖も二癖もある実力者を揃えていた。ドラフト2巡目指名ながら前シーズンにオールスター出場を果たした、ストレッチ4の先駆けともいえるクリフォード・ロビンソンや、ニューヨーク仕込みのドリブルスキルでファンを魅了し、あのカイリー・アービングの名付け親(ゴッドファーザー)でもあるロッド・ストリックランドなどを擁するプレイオフ常連チームである。 一方のクリッパーズは、1970年のチーム創設以降、プレイオフ出場は5度のみ(うち2度は1回戦敗退)という長い低迷期の真っ只中で、ロスターも生え抜き5年目のロイ・ボートや、その年のドラフト1巡目全体7位で指名したラモンド・マレーなど若手が主体。対照的なチーム同士のマッチアップではあったが、ドレクスラーの華麗なプレイは横浜アリーナに集まった日本のファンを歓喜させるに十分なものだった。 第1戦では滑らかなドライブ、正確なジャンプショット、3ポイント、さらにはハーフコートショットを披露。超満員となったアリーナにスタンディングオベーションの嵐を巻き起こすと、翌日の第2戦もゲームハイの41得点と大爆発。2試合で67得点とファンの期待に大いに応える存在感を見せつけた。 その後、ドレクスラーはこのシーズン中にディフェンディングチャンピオンのヒューストン・ロケッツにトレードされ、大学時代のチームメイト、アキーム・オラジュワンとデュオを再結成。初めてNBAチャンピオンの栄冠を手に入れることとなる。
日本のファンの前で数々の華麗なプレイを見せてくれたドレクスラーだが、実はその後も日本との関係は続くこととなる。 B.LEAGUEの2016-17シーズンに彼の息子アダム・ドレクスラーが、B2の岩手ビッグブルズ(現B3)に加入。その際には応援大使として来日し、特別コーチも務めたのだ。まさしく日本とドレクスラーの長きにわたる“縁”を作る大きなきっかけとなった「NBA Japan Games」であった。