新型コロナウイルスの影響によるレギュラーシーズンの中断と再開、プレイオフの一箇所集中開催、黒人差別問題を巡っての試合ボイコットや開催延期など、これほど揺れ動いたシーズンはかつてなかっただろう。 現地7月30日から再開した試合を観戦していて、当初最も違和感を覚えたのは、会場に観客がいないことだった。本気モードのスクリメージにしか見えない。だが、慣れというのは不思議なもので、今ではごく自然に試合を観ている自分がいる。 一年の総決算であるプレイオフは、選手やチームのみならず、ファンにとっても一番気合の入る時期だ。例年であればアリーナは一段と熱気を帯び、雰囲気も華やかになる。現地の試合中継では、決まって観戦に訪れたセレブたちが映し出され、ニューヨークやロサンゼルスでの試合ともなると、コートサイドのプラチナシートに何人もの超有名人が座っていたりする。
クリッパーズのビリー・クリスタル、セルティックスのマット・デイモン、ラプターズのドレイクらは、各チームを代表するセレブファンだ。他にも、全チームにそれぞれ名物的なセレブのファンは存在するが、なかでもダイハードファンとして特に有名なのが、西はレイカーズのジャック・ニコルソン、東はニックスのスパイク・リーである。 シーズンチケットのホルダー歴はニコルソンのほうが長いものの(1970年代から)、熱狂度で言えばスパイクが上回るだろう。つまり、NBAで最も熱く、クレイジーで、深い忠誠心を持った“ウルトラダイハード・セレブファン”は、スパイクということになる。 映画監督兼プロデューサーのスパイクは、アメリカでは知らない人がいないほどの有名人であり、とりわけニューヨークではスペシャルな存在となっている。生まれこそアトランタだが、ブルックリンで育ち、ニューヨーク大学の大学院で映画を学び、ニューヨークを舞台にした映画で地位を確立した。何より、ニューヨークで最も有名なニックスファンなわけだから、ニューヨーカーのリスペクトを集めて当然だろう。ニックス教の信者にとっては、さながら教祖のような存在である。 そんなスパイクに、ニックスについての想いを語ってもらうべく、マディソンスクエア・ガーデンで単独アポなしインタビューを敢行したのは、1999年11月のことだった。初対面の人に自分からは話しかけられないほど人見知りな自分が、よくもまああんな大それたことを……と今になって猛烈に思う。今ならいくらお金を積まれてもできないだろう。
1990年代から2000年代にかけて、僕は今振り返って自分でも呆れるほどの、大のニックスファンだった。その頃ニューヨークで暮らしていたこともあり、ニックスにどっぷりと、骨の髄まで嵌っていた。ニックスの試合はすべて観ないと、心の平穏が保てなかった。ビデオデッキを持っていたにもかかわらず、プレイオフの試合をテレビでライブ観戦したいため、せっかくオファーをいただいた撮影の仕事を断ったことさえある。百歩譲って、ガーデンでの生観戦ならいざしらず、十数インチの小さなテレビで観戦するために。 ニックスが8位シードから快進撃を続け、“ミラクル・ニックス”と呼ばれた1999年、仕事で何度かご一緒したライターさんの紹介で、NBA専門誌『DUNK SHOOT』のI編集長とお会いした。NBAファイナルの取材でニューヨークを訪れていて、「現地に住む日本人に、異常なニックスファンがいる」ことは耳に入っていたらしく、その後ミラクル・ニックスに関する原稿の依頼を受けた。
それをきっかけに、ニューヨークに住む少々イタいダイハードファンが、ニックスにまつわる四方山話をお届けするという企画、『月刊ニックス』の連載が1999年11月からスタート。チャールズ・オークレーが経営する洗車屋に取材に行ったところ、なぜか洗車を手伝わされるなど様々な出来事があったが、その一発目のネタがスパイクの突撃インタビューだった。 一般のチケットではコートサイドにアクセスできないため、『DUNK SHOOT』編集部からメディアパスを申請してもらい、決行日は11月のホームゲームに設定。「スパイクは試合開始のかなり前からガーデンに入る」という情報を、テレビ中継の雑談で聞いたことがあったので、パスが交付される試合開始1時間半前にガーデン入りした。 客席ではスタッフたちが客を迎え入れる準備をしている。照明もまだ若干暗めのようだ。肝心のスパイクの姿は見当たらない。僕は質問内容をまとめたノートに目を通し、さりとて緊張と不安で文字なぞ頭に入るわけもなく、撮影に備えて持ってきた露出計で明るさを測ったりして時間を潰しながら、ひたすら待ち続けた。
3、40分ほど待っただろうか、コートサイドをゆっくりと歩いてくる人物がいた。スパイクである。席に着くやいなや、どこからともなく制服のジャケットを着たセキュリティが姿を現した。 まさかこんなに早い時間からセキュリティが付くとは。予想外の展開だったが、このチャンスを逃したら関係者や客がどんどん入ってきて、インタビューどころじゃなくなるだろう。意を決してスパイクの方に歩み寄ると、案の定辿り着く前にセキュリティから制止された。 パスを見せながら事情を説明し、少しだけMr.リーと話がしたいと告げると、返ってきた答えは“No.”。そこをなんとかひとつ、と言ったかどうかは覚えていないが、押し問答をしているその時だった。「何の用?」、そう僕らに向かってスパイクが声をかけてくれたのである。セキュリティが事の成り行きを説明すると、「いいよ、少しなら」と、涙が出るほどありがたいお言葉。 僕はまず非礼を詫びると、「大丈夫」と優しいトーンで応じてくれ、おかげでド緊張しながらもかろうじて自分を取り戻すことができた。そして、日本のNBA専門誌でニックス応援ページの連載がスタートしたことなどを手短に伝え、準備していた質問を投げかけた。当時のチーム状況についてのQ&A以外で、興味深かったものをいくつか再掲載させていただこう。
――数年前に出演された『ESPN』の特別番組で、あなたは「ニックスが1985年にユーイングをドラフトピックしたその翌日に、シーズンチケットを買った」と言っていましたが、あれは本当ですか? スパイク:事実だよ。Very next dayにね。 ――そのときにこのコートサイド席を買ったのですか? スパイク:No, no.(初めて笑みをこぼしながら)。最初に手に入れたのはあの辺り(3階席の上の方を指差しながら)の安い席で、たしかセクションナンバーは333だった。それから毎年収入が増えるとともに、この席へ近づいてきたんだ。少しずつね。 ――ホームゲーム41試合中、ガーデンに来られない日もあるのですか? スパイク:全試合来れるよう、できる限りの努力はしている。それでも、1シーズンに5試合ぐらいはミスしていると思う。とても辛いことだけど。 ――大変失礼な質問ですが、現在コートサイド最前列のシーズンチケットは幾らぐらいですか?(1995年頃の『スポーツ・イラストレイテッド』誌に“高騰するチケットプライス”という特集記事が載っており、当時ガーデンのコートサイド最前列は1試合1000ドル、シーズンチケットで4万1000ドルだった。その後さらに値上がりしている)。 スパイク:お金の問題じゃない。どんなに高くたって、僕はこの席にいるよ。 最後の質問を終えた後、写真を何枚か撮らせてもらえないか尋ねると、快く承諾してくれた。この日僕はフォトグラファーではなく記者のパスを申請していたため、持ってきた機材は中判カメラのペンタックス6×7とレンズ1本だけ。 テレビでは明るくきらびやかに見えるガーデンのコートも、実際はけっこう暗めなことにこの日初めて気づいた。記憶は曖昧だが、常用していたレンズとフィルムの場合、絞りを開放にしてもシャッタースピードは1/30とか1/60程度、どでかいペンタックス6×7だと手持ち撮影では厳しい環境である。 手ブレを防ぐため、仕方なく露出不足を覚悟の上でシャッタースピードを上げ、フィルムの増感現像とプリントでなんとか対処することにして、数枚撮らせてもらった。その後、ガーデンに併設されたショップで買ってきたばかりの、読者プレゼント用のニックスの帽子にサインを貰い、心からの礼を述べ、固い握手を交わしてコートサイドを離れた。 今思い返しても、よくもまああんなことをやったなあと思う。若さゆえ、と言ってしまえばそれまでだが、若い頃でも物怖じしてできなかったことはいくらでもあった。たぶん、冒頭に書いた通り、ニックスが好きすぎるあまり、メンタル面に異変が生じていたのだろう。ニックスに関する事柄については、リミッターが壊れていたのだと思う。
あれから21年。あの頃を堺に下り坂を転げ始めたニックスは、今ではすっかりドアマットと化し、もうかれこれ6、7年もの間、出口の見えない暗闇の中をさまよっている。一方僕は病もすっかり癒え、ずいぶん前から健全な社会生活を送りはじめた。今でもニックスが一番好きなチームであることに変わりはないが、全試合観ることも、朝から晩までニックスについて考えることもなくなった。 それにしても、スパイクのあの情熱と献身さは本当に大したものだと思う。あんな応援団長が存在するニックスは、NBA一幸せなチームだとも思う。 そんなスパイクだが、今年3月にガーデンとの間で大きな騒動が起きている。28年間出入りに使用していた従業員用通用口を、ある日突然予告もなく使用禁止にされ、VIP専用もしくは一般客のゲートから入り直せと言われたというのだ。球団オーナー、ジェームズ・ドーランの差し金であることは明白だった。何らかの理由で、スパイクの存在を目障りに感じているのだろう。スパイクはその指示を拒否、さらに激昂した挙げ句「もう今シーズンはニックスの試合を観にガーデンに行かない」と宣言。幸か不幸か、コロナの影響で3月11日を最後にレギュラーシーズンが中断となり、観戦ボイコットは自然消滅した。 ボイコットは今シーズンのみとしているが、今後の流れ次第では何が起きてもおかしくないだろう。レジー・ミラーは、「こんな事はペイサーズのホームアリーナじゃ起こりえない。スパイクは応援するチームを変える時かもしれない」とツイートしている。 それでも、スパイクは必ずやガーデンに戻ってきてくれるものと信じている。10歳の頃、父親に連れられ旧ガーデンでニックスの試合を見てから半世紀。彼の体には、ブルーとオレンジの血が流れているのだから。 この騒動について、スパイクは『ESPN』のトーク番組にゲストで呼ばれ心情を吐露しているが、その時の情報よると、現在スパイクの席は1試合3400ドル(約36万円)で、2席保有しており、プレシーズンゲームも合わせた1シーズンのチケット代は計29万9000ドル(約3140万円)にも及ぶそうである。偏執狂の独裁者、無能オーナーのジェームズ・ドーランは、スパイクに嫌がらせなんかしてないで、“終身名誉応援団長”に認定して生涯のシーズンチケットをプレゼントするぐらいの男気を見せてほしいものだ。 最後に。この文章を読んでくださった日本のNBAファンへ、21年前にスパイクが語ってくれたありがたいお言葉を捧げたい。 ――日本のNBAファンとニックスファンにメッセージを。 スパイク:NBAファン? うーん、NBAファンの人たちは、全員ニックスのファンになるべきだ。もうすでにニックスのファンの人たちは、Just keep saying,“Go New York Go!” 写真オリジナル掲載:BASKETBALL DIGEST『DUNK SHOOT』/ 2000年2月号
大井成義:フォトグラファー兼ライター。1993年渡米、School of Visual Arts New York卒業。ポートレイトを中心にトラベルやスポーツ関連の写真を撮影する傍ら、国内外で個展を開催。ライターとしては、2000年代前半に『DUNK SHOOT』誌で「月刊ニックス」を連載、以来同誌にてコラムを執筆している。現在日本在住。