スターから名脇役まで。22年ものキャリアを送れたビンス・カーターのメンタリティ【杉浦大介コラム vol.26】

再生の契機となったネッツへの移籍

「このチームではジェイソン(キッド)がバットマン。僕はロビンなんだ」 ニュージャージー・ネッツ時代のビンス・カーターを振り返ったとき、2004年のチーム加入直後、当時はコンチネンタル・エアラインズ・アリーナと呼ばれていたアリーナのロッカールームで嬉しそうにそう述べていた姿が、最も強く印象に残っている。 トロント・ラプターズ時代に“ダンク王”として名を馳せたカーターは、一躍リーグ屈指のスーパースターとなる。ただ、ラプターズでのキャリア終盤は故障、首脳陣との対立、トレード志願などでイメージが悪くなっていた。元来控えめな性格で、注目されることに疲れていた部分もあったのだろう。 ネッツでのカーターにはビッグネームらしいエゴは見受けられず、キッドという看板がいるチームの2番手的な立場になったことを心地よく感じているようだった。また、当時のネッツはニューヨークのすぐお隣ニュージャージーに本拠地を置きながら、どこか田舎臭の漂うチーム。注目度が高いとはいえない環境は、やり易かったのかもしれない。 重圧から解放された“ロビン”のプレイは、時にため息が出るほどに素晴らしかった。特に凄まじかったのが、シーズン途中にネッツへ入団した2004-05シーズン。この年、ラプターズでは20試合で平均15.9得点だったのが、ネッツ加入後は57試合で平均27.5得点、3ポイント成功率42.5%と大爆発。しかもそのプレイは独創的で、まるで漫画のような豪快なダンクや、バレリーナのように華麗な「360」のスピンを頻繁に披露してくれた。

リチャード・ジェファーソン(左)とジェイソン・キッド(右)とともにプレイしたネッツ時代は、水を得た魚のように躍動した

スーパープレイの後には、大歓声よりもむしろ驚嘆のどよめきが多かったように記憶している。とてつもないハイライトが生まれ、ホーム戦でPAアナウンサーを務めたゲイリー・サスマン広報部長(当時)が、「Did you see V-C?!」(ビンス・カーターの今のプレイを見たかい?)”と叫ぶのが恒例となった。 この年、層の薄さがたたって開幕から7勝14敗と低迷していたネッツは、カーター加入後、リチャード・ジェファーソンが故障離脱していたにもかかわらず、35勝26敗と息を吹き返す。プレイオフではマイアミ・ヒートに敗れたものの、カーターの大活躍がなければその地点まで絶対に辿り着けなかったはずだ。

22年ものキャリアを送れたメンタリティとは

「僕はニュージャージー・ネッツのダイハード・ファンで、子どもの頃は部屋でVCとネッツのプレイを見ていた。ビンス・カーターは本当にすごかったよ」 ニュージャージー出身のカイリー・アービングは、今年1月、カーターが所属するアトランタ・ホークスと対戦した際にそう述べていた。カーターがいた頃のネッツの試合を日常的に見ていたファン、関係者は、そんなアービングの言葉に思わずうなずくのではないか。あの頃のカーターは、誰もが決して忘れられないようなプレイを毎晩のように見せてくれていたからだ。 もちろんすべてを美化すべきではなく、ネッツ時代のカーターも完璧な選手ではなかった。移籍2年目以降も優れた数字を残し、ファンを魅了し続けたものの、プレイオフでは2006、2007年に1回戦を勝利したのみ。勝負所での弱さが見え隠れし、大舞台でチームを勝利に導くことはかなわなかった。故障者が増えたネッツは徐々に勢いを失い、2008、2009年と2年連続でプレイオフも逃した。2008年にキッドがトレードされたのに続き、カーターも2009年のオフにネッツを去った。 キッド、カーター時代のネッツには他にもジェファーソン、ネイナド・クリスティッチといった好選手が属していたが、鍵を握るのはやはりカーターだった。だとすれば、上位進出できなかった責任を誰よりも問われるのも仕方ない。カーターは一時期比較されたマイケル・ジョーダン、あるいはコービー・ブライアント、ドウェイン・ウェイドのように勝負師としての迫力を感じさせる選手ではなかった。あれほどの能力を持ちながら、バットマンよりもロビンでいることに満足していたのは、メンタル面での限界を指し示していたと考えることもできる。 しかし一方で、そうした主役にこだわらないメンタリティを持っていたからこそ、カーターはネッツ退団後も息の長いキャリアを送れたのではないかとも思える。

キャリア中期以降は各チームを転々としたカーターだが、老獪なテクニックを活かして最後まで貢献し続けた

2009年にオーランド・マジックに移籍したカーターは、以降、フェニックス・サンズ、ダラス・マーベリックス、メンフィス・グリズリーズ、サクラメント・キングス、アトランタ・ホークスと転々。その過程で徐々にロールプレイヤー化が進み、バットマン、ロビンではなく、サポーティングキャストの1人になった。 もっとも、だからといって存在感を失ったわけではない。持ち前の身体能力こそ徐々に衰えたものの、豊富な経験に裏打ちされた聡明なプレイで貢献し、プレイオフでも随所で仕事を遂行した。年齢を重ねるにつれ、カーターは“いぶし銀の名脇役”のような渋い魅力を醸し出すようにもなっていた。

紛れもなく金が取れる千両役者

台頭期はとにかく爆発的なバネが目立っただけに、そういうタイプの選手が加齢とともに見事に適応したことに驚いた識者やファンも少なくなかっただろう。NBAでのプレイ年数が20年を超える頃には、リーグ全体からリスペクトを浴びるようになっていた。 いつしか43歳になったカーターは、今季所属したホークスがオーランドでのシーズン再開後のフォーマットには含まれなかったため、6月25日に引退を表明した。ついにファイナル進出は果たせなかったし、パンデミック下という不運によって、これだけのキャリアにふさわしい形で送り出されなかったのはやはり残念ではある。それでも、カーター本人は「それが現実だから」と潔く語っている。 去り際にそう言える人生は、きっとたまらなく幸福だろう。本当に見事なキャリアだった。主役のバットマンとして一世を風靡し、その後に相棒役のロビンとして自身を再生させた。晩年は脇役として様々な役割を経験し、その過程で、最後の最後までこのスポーツを楽しんだ。そんな22年間を振り返り、ほとんどプロバスケットボール選手としての理想型を体現したと感じる人も多いのではないだろうか。 個人的には、やはりニュージャージーでのびのびと躍動したカーターの姿を忘れることはない。当時、コンチネンタル・エアラインズ・アリーナの記者席はゴールのすぐ背後という贅沢な位置にあり、おかげでカーターのアクロバティックなプレイをごく間近で観ることができた。キッドのパスを受けたカーターが尋常ではないダンクを決め、「Did you see V-C?!」の叫び声が続く。4年半の間に何度も目の当たりにしたそんなシーンを、今でも昨日のことのように思い出すことができる。 スポーツライターになって以降、スーパースター、すごい能力を持ったプレイヤーは何人も目にしてきた。それでも、「同世代で間近に見られて幸運だった」と感じた選手はそれほど多いわけではない。全盛期の“ロビン”は最高の選手ではなかったが、紛れもなく金が取れる千両役者だった。そういった意味で、ビンス・カーターはやはり特別なプレイヤーだったのである。

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杉浦大介:ニューヨーク在住のフリーライター。NBA、MLB、ボクシングなどアメリカのスポーツの取材・執筆を行なっている。『DUNK SHOOT』、『SLUGGER』など各種専門誌や『NBA JAPAN』、『日本経済新聞・電子版』といったウェブメディアなどに寄稿している。

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