あの頃から始まったストーリーは、まだ終わっていない。
あの頃、僕たちは何を求めていたのだろうか。 実体のないバブル景気を誰もが体感し始めた1988年、円高の影響で多くの輸入品が日本に上陸した。初めて目にする新しいヒト、モノ、コトは、やがて新しい文化を生み出していく。放送局は莫大な広告売り上げを叩き出し、トレンディドラマには潤沢な制作予算が割り当てられた。そこに描かれた生活は当然のように華やかで、それを観た人々が憧れる、の繰り返し。あの時代を全力で駆け抜けた人たちはとにかく刺激に飢えていて、まだ見ぬ何かを常に探していたのかもしれない。 当時、日本はアメリカが生み出したあらゆるカルチャーに憧れを抱いていた。それがいよいよ手に届きそうな気がしていた。ちょうどNBAがアメリカの枠を超えて、世界戦略を目論み始めた時、僕たちは時代の活況のおかげで、それを受け入れる準備が十分に整っていた。というより、前のめりに手を広げて待っていたのかもしれない。そうして僕たちは既に全米のスターダムを駆け上がっていたマイケル・ジョーダンと出会う。まだ一部のバスケットボール好きのためだけに放映されていたNBAの試合は、現地でいつ行われたのかさえわからないもので、かつ深夜枠の録画放送でしかなかった。それが本格的な衛星放送が始まり、高画質でマイケル・ジョーダンというスターとチームメイト、個性的なライバルたちによる、激しく美しいプレイを大きな時差なく観ることができた。僕たちはいつしかNBAを取り巻くすべてに取り憑かれ、情熱を注ぎ、その対価として夢のようなドラマを享受していた。振り返ればあの頃のNBAは、一人のプレイヤーを主役に据えた台本が、向こう10年まで最初から出来上がっていたかのようだった。 あの狂騒の渦を作り出していたファンたちも、いつしかそれぞれの道を歩み始めた。バスケットボールの神様と崇められた主人公は永遠ではなかったかもしれないが、ドラマはまだ終わっていない。この「Windy City Blues」は、終わりなき台本の続きを、あの頃を謳歌した、時代の証言者たちに向けたアンサーソングだ。今年のオールスターゲームは、白いエアジョーダンIIIを履いたジョーダンがスラムダンク・コンテストを連覇し、黒いエアジョーダンIIIを履いてオールスタータイ記録(当時)となる40得点を叩き出し、満票でMVPを獲得した32年前、つまり1988年以来となる彼のお膝元シカゴでの開催となる。
この偶然は、自分の感情を過去に引き戻すタイムマシーンかもしれない。今やスターは群雄割拠であり、日本から飛び立ったルーキーはコートで未来を切り開いている。当時では想像もしえなかった出来事が現実に起きていて、あの頃に感じていた熱の源は、今も同じようにコートに残っている。 そして、僕たちが愛した台本に存在したスーパースターのひとり、コービー・ブライアントが1月26日、不慮の事故に遭い、帰らぬ人となった。日本でも大々的に報じられたこの大きなニュースによって、輝きを放った在りし日のプレイを懐かしみながら、彼と次女のジアナさんに、深い哀悼の意を表したい。
ライター 小澤匡行 / MASAYUKI OZAWA 1978年、千葉県出身の編集者・ライター。大学在学中に1年間のアメリカ留学を経験した後、ライターとして活動を始め、広告や雑誌を始めとするファッション関連の編集・ライティングを行う。2016年、『東京スニーカー史』(立東舎)を発表。2017年に『SNEAKERS』を日本語監修。2020年に新書が発売予定。