90年代、僕たちは『Boon』などの雑誌を通してNBAの選手と取り巻くカルチャーを複合的に体感し、大きな渦を作り出していった。
ヒーローの定義とは「傑出した能力を活かして超人的な活躍をする主人公」である。そして物語では、ヒーローの活躍を阻止しようと企むアンチヒーローの存在が、ストーリーを盛り上げる。1990年代当時、1970〜80年代生まれの団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニア世代の若者たちは、NBAに興味を抱きはじめた時からマイケル・ジョーダンという主人公によるサクセスストーリーを、無意識に作り上げていたのではないか。変幻自在のムーブと超人的なジャンプ力を備えたヒーローの周りには、華やかで個性的なチームメイト―相棒のスコッティ・ピッペンやお騒がせリバウンド王のデニス・ロッドマン―がいた。 そんな主人公の前には、次から次へと強敵が現れた。挙げればきりがないほど、キャラクターの宝庫だった。もちろん専門的な視点を持ったファンが人気の土台を支え、若年層だった筆者を含めた大多数の“にわか”ファンは、こうした関係図でNBAの虜になっていったのではないか。バスケットボールの専門誌や少しずつ増えてきたテレビ放送といったメディアにもそうした偏りを感じるほど、ジョーダンがいたシカゴ・ブルズは絶対的な存在だった。それが1992年のバルセロナ五輪では協力し合い、世界最高の称号を奪い返すためにアメリカ代表として同じチームで戦うという筋書きのないドラマに、誰が興奮しなかったのだろうか。
そうした現状を別の角度から向き合い、多くのNBAファンに新しい価値観と視点を作り出すと同時に、服好きにNBAへの興味関心を促した雑誌があった。まだ男性ファッション誌史の黎明期に『Boon』というストリート誌は、スターの足元に着目したのだった。 「1990年頃でしょうか。アメリカではスポーツタイプのスニーカーが人気という記事を見つけた編集長が、私にスニーカーの企画を与えたんです。ライターと相談したらNBAというジャンルは面白そうだ、ということになって。恥ずかしながら、ジョーダンがアメリカで絶対的な人気選手であることくらいしか知らなかったので、すべてが手探りの状態でした。月刊バスケットボール編集部に協力を仰いで選手の写真をお借りし、彼らがどんなシューズを履いているかをとにかく調べました。わかりにくい写真があれば、メーカーさんにお願いしてシューズを借りて掲載して。まぁその時に出来る範囲のことをしたという感覚ですね。たった4ページのモノクロ企画だったのですが、読者アンケートですごい人気だったんですよ」 そう振り返るのは、『Boon』を発行していた祥伝社の只野孝一さんだ。バスケットボールのルールすら知らずに特集を担当したのを皮切りに、NBAの選手やシューズの世界にのめり込んだ。それまで古着とジーンズが人気コンテンツだった『Boon』に、NBAとスニーカーを結びつけたコンテンツが加わった同誌は、後に90年代ストリートを牽引するメディアに成長した。 「研究熱心だったマニアの方はさておき、あの頃にNBAの映像を見ることができたのは衛星放送を契約している限られた世帯か、ビデオテープをお店で買うくらい。だから雑誌の記事で扱うことが新鮮だったのだと思います。僕が思うに、みんながNBAに飛びついたのは、まず選手がかっこよくて、さらに選手が履いている靴がかっこよかったから。調べていくうちに、選手たちはスポーツメーカーとエンドースメント契約を交わしていて、シグネチャーモデルが存在していたことが分かったんです。また、当時のナイキはデザインがどれも本当に魅力的だったので、誰よりも早く知りたい、紹介したい気持ちがありました」
只野さんは、とある興味関心先を企画にする際、必ず付随するカルチャーを結びつけることを編集理念としていた。NBAにのめり込んでいくほど、カルチャーが何層ものレイヤーで絡み合っていることを知る。流行の現象を大衆に向けてありきたりに紹介するのではなく、情報を編集して発信する。そこに雑誌というメディアのオリジナリティがあり、役割があった。『Boon』は、選手のプレイだけでは表現しきれないNBAの魅力を伝えていたのである。 「基本的にシューズが絡んでいました。紙媒体だと音楽の魅力を伝えるのが難しかったのですが、海外のヒップホップアーティストに注目してみると、NBAのジャージーやキャップなんかをスタイルに取り入れていて。じゃあそれを紹介しようと企画を進めると、巡り巡ってNBAのチームやプレイヤーの紹介に繋がる。映画監督のスパイク・リーを知った時には、彼が手がけるナイキのコマーシャルが面白いという話になって特集を組んだりもしました。NYのブルックリンにある彼のショップに行けば本人に取材できると意気込んだのですが、結局会えずじまい。その代わり、たしかお兄さんと話すことができて『40Acres(フォーティー・エイカーズ)(※)』の意味が南北戦争の解放奴隷に補償された土地の広さだってことを教えてもらったりしてね。私たちはNBAを通じて、アメリカの歴史まで知ることができたんです」 ※映画監督スパイク・リーによる制作会社「40 Acres and a Mule Filmworks」のオフィシャルブランド
特定の雑誌を読み込むことで、カルチャーの動向を探りやすかった時代に、『Boon』は独自の解析によって世の中にNBAの魅力を提示し、トレンドを生み出していたように思う。その大きな影響力を利用して、カルチャーと時の人を結びつける手法もまた、同誌が得意とするアプローチだった。例えば1992年の3月号では、NBAのチームワッペンが貼り付けられたレザージャケットを着用させた織田裕二を、1996年の12月号では、エア ジョーダン Iを主役に据え、ブルズカラーに彩られた広末涼子を表紙に起用した。こうした母数の大きいもの同士を掛け合わせることでマジョリティーに文化的な体験を共有させ、さらに大きな渦を作り出していった。 かくして90年代のNBAは雑誌というメディアと並走し、ただ試合を観るだけでは完結しないカルチャーを何年もかけて醸成してきた。しかし90年代後半になるとインターネットの潮流とともにお互いのスピード感覚にズレが生じ、何層にも重なったカルチャーが剥離し始めたように思える。とはいえあの頃、確かな熱狂がそこにはあった。ファッション好きに向けて時代を編んでいた『Boon』の読者の中に、ファッション好きではないNBA好きが多く混じり始めた現象こそがブームの正体であり、メディアの功績だったのだ。 「自分に縁のなかった、ルールすら知らないスポーツで、こんなに熱くなったことは後にも先にもありませんでした。でもそれはスポーツだけじゃなくて、取り巻く世界が色々あったからだったのかな。今はもう、バッシュを見るような年齢ではなくなってしまったけど、あの頃のようにドキドキする現役の選手に出会ってみたいですね」
ライター 小澤匡行 / MASAYUKI OZAWA 1978年、千葉県出身の編集者・ライター。大学在学中に1年間のアメリカ留学を経験した後、ライターとして活動を始め、広告や雑誌を始めとするファッション関連の編集・ライティングを行う。2016年、『東京スニーカー史』(立東舎)を発表。2017年に『SNEAKERS』を日本語監修。2020年に新書が発売予定。
インタビュイー 只野孝一 / KOICHI TADANO 1958年宮城県生まれ。1983年に祥伝社に入社。1988年に「BOON」編集部に配属。数々のNBAやスニーカーの特集を担当し、1996年より編集長に就任し、社会現象にもなったナイキのエア マックスブームの立役者でもある。趣味は雑誌の創刊号、映画パンフレット、プロ野球カードの収集。好きなNBAプレーヤーはもちろんマイケル・ジョーダン。