日本のバスケットボール人気に火をつけた国民的漫画“SLAM DUNK(スラムダンク)”。その連載が始まった1990年、バスケットボール界に起きたもう一つの出来事が、その人気をさらに加速させた。「NBA Japan Games」の初開催である。 当時のNBAはマジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンらバスケットボール史に名を残すスーパースターたちがリーグを引っ張る“NBA黄金期”。世界的にNBAブームが巻き起こっていた時代だ。日本においても1980年代後半からテレビ中継が始まり、徐々にNBAが認知されるようになっていた。 1990−91シーズンはNBAにおいてひとつの転換期だと言える。“神様”マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズが初優勝を飾り、スリーピート(3連覇)の足がかりとなったシーズンだ。そんな年の開幕戦としてNBA Japan Gamesが行われることになるのだが、実はNBAが北米大陸以外で公式戦を行うのは初めてのことだった。日本のみならず、NBAにとっても1990年というのは歴史的な1年だったのだ。
そんな歴史的ゲームのため来日したのはユタ・ジャズとフェニックス・サンズ。当時のジャズは1992年のバルセロナ五輪で世界に衝撃を与えた“初代”ドリームチームにも選ばれる史上最高峰のデュオ、ジョン・ストックトンとカール・マローンを擁し、前シーズンに55勝27敗の好成績を残していた。一方サンズも、のちに永久欠番となるケビン・ジョンソンとチームの得点源トム・チェンバースを中心に、前シーズンはカンファレンス・ファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンス屈指の強豪同士によるマッチアップが、日本で実現したのであった。 会場は東京体育館。現在、高校バスケのウインターカップやBリーグファイナルなども行われる、バスケットボールプレイヤーにとって憧れのコートが舞台となった。1990年11月2日、収容人数1万人の体育館は満席となり、日本の子どもたちによるかわいらしい花束贈呈のセレモニーが終わると、待ちに待ったティップオフの笛が吹かれた。 GAME1では、3年連続でアシスト王(最終的には9年連続)に輝いていたストックトンが巧みなゲームメイクで12アシスト。マローンとの息の合ったピック&ロールで観客を沸かせると、サンズのジョンソンも自慢の切れ味鋭いドライブから29得点、チェンバースも堅実なミドルシュートでゲームハイの38得点とスター選手がこれぞNBAというプレイをまざまざと見せつける。 翌日のGAME2では、マローンが29得点14リバウンドのダブルダブルでジャズを牽引すると、サンズもジョンソンが28得点と両チームのエースが一歩も譲らず。終盤まで1点を争う好ゲームを見せた。 2日間行われた試合はともに超満員で、迫力満点のダンクに正確無比なシュート、洗練されたプレイの数々に観客は酔いしれ、日本中がNBAの虜となった。 その後、NBA Japan Gamesは6度開催され、3人の日本人プレイヤーも誕生するなど、約30年の月日をかけて日本とNBAの距離は大きく縮まった。しかし、そのきっかけとなったのは、1990年の歴史的なNBA Japan Gamesであり、現在のNBA人気の礎であることは疑う余地もない。