NBAファン、関係者の誰もが「Wow!」と驚きの声を挙げたに違いない。大物の移籍、去就の情報は事前リークが当然となった米スポーツ界においても、スティーブ・ナッシュとブルックリン・ネッツの接触は交渉の段階でまったく話が漏れてこなかったからだ。だからこそ、9月上旬に明かされたナッシュのネッツ新HC就任は、リーグ全体を震撼させる驚きのニュースとなったのである。 2015年に現役を引退したナッシュは、16〜19年までゴールデンステイト・ウォリアーズの選手育成コンサルタントを務めたものの、激務であるHCになる意思はないと見られていた。サッカーを愛し、有名なファミリーマンでもある彼は、今後も自由な人生を謳歌していくと思われていたからだ。 しかし改めて考えると、“コーチ未経験”のリスクを考慮した上でも、ナッシュの登用は理にかなう部分が多い。
現役時代のナッシュはバスケットボールIQの高さで知られ、特にフェニックス・サンズでプレイした頃にはマイク・ダントーニHCの指揮下で世にも見事な攻撃型バスケを展開し、2度MVPに輝いた。謙虚かつ聡明なことでも有名で、同僚、メディアからも愛されるキャラクターの持ち主だった。また、ネッツの“一国一城の主”を任される上で、ウォリアーズのコンサルタント時代にケビン・デュラントと心を通わせたと伝えられたのもプラス材料に違いない。 来季、デュラント、カイリー・アービングを軸に一気に優勝を狙うネッツにとって、戦術眼、コミュニケーション能力、そして、スーパースターからもリスペクトされるだけの選手としての実績を備えたナッシュは、少なくとも机上ではほとんど理想的に近い存在に見えたのだろう。近年ではスティーブ・カーHCがウォリアーズを率いて即座に大成功を収めたように、優秀な人材であれば、コーチ経験がないことは必ずしも致命傷にならないと示されてきた。
「私は現役時代にスティーブと同じチーム(サンズ)でプレイする幸運に恵まれ、コート内外でリーダーだった彼の姿を間近で見てきた。彼と親しい関係を築くこともできた。スティーブほど重圧のかかる状況を渇望する人は他にいなかったんだ。彼は重大な局面から決して尻込みせず、キャリアを見れば分かる通り、ゲーム終盤にボールを持ちたがる選手だった。適切な判断ができる人物であり、その経験をネッツにも持ち込んでくれるはずだ」 9月9日のリモート会見の際、ショーン・マークスGMが残した言葉からは、理想の指揮官を手に入れた喜びが分かりやすい形で伝わってきた。その期待通り、来季、ナッシュが短期間で魅力的なチームを牽引したとしても驚くべきではない。
もっとも、不安材料もある。来季のネッツを考えた上で、ナッシュ新HCにとって最大の鍵はアービングと良好な関係を築けるかどうかだろう。 卓越した個人技を誇るアービングはリーグ屈指の攻撃型ガードだが、気分屋としても有名だ。ネッツ移籍1年目の昨季も、チーム内から不協和音らしきものがすぐに聴こえてきたのは記憶に新しい。筆者も個人的に親しかった元ネッツ職員は、シーズン中に退職する際の理由にアービングが作り出した雰囲気を挙げていたくらいだから、28歳のPGはやはり扱いやすい選手ではないのだろう。 これまでブラッド・スティーブンス(セルティックス HC)、ケニー・アトキンソン(昨季途中、ネッツHCを退任)といった評判の良い指揮官たちでもアービングと良好な関係を築けなかったことは、すでによく知られた話である。 「カイリーはオールタイムでも私が最も好きな選手の1人。彼のスキルレベルは歴史的だし、クリエイティブで、ガッツがあり、負けず嫌いでもある。彼のような選手をコーチできるのは喜びだ。彼がルーキーの頃に私と対戦した時から彼を知っている。私が引退した後、5、6年ほど前に、ニューヨークで一緒に練習したこともあった。私たちの関係性をさらに発展させ、彼がコート上で偉大さを誇示するのを目にし、素晴らしい人間でもある彼とより深く知り合えることにエキサイトしているよ」 9日の会見時、ナッシュはアービングへの絶賛を繰り返していたが、今後どのような関係性を構築できるかは見届ける必要があるだろう。
アービングはクリーブランド・キャバリアーズ時代、同じくガード出身だったタロン・ルーHCとウマがあったと伝えられており、昨季途中にアトキンソン更迭後は後釜にルーを望んでいるという報道もあった。今回のナッシュ登用に際し、マークスGMはアービングにも意見を求めたのは確実。同ポジションで殿堂入りを果たした新指揮官との間に、ルーの時と同様、いやそれ以上に良好なケミストリーが生まれる可能性は十分ある。 もちろん、選手とコーチの相性は一緒に旅を始めてみないと分からないもの。“常にスーパースターを中心に動く”といわれるNBAにおいて、その関係作りの重要性と難しさはなおさらだ。家族以上に長い時間をともに過ごす中で、コーチの数倍の給料を受け取り、発言の影響力も大きいスター選手をコントロールし切れるか。ナッシュに関してはそのあたりが完全に未知数であり、そこに“HC未経験者にスター軍団を任せる”という今回の雇用のリスクも存在する。 就任後すぐにステフィン・カリー、クレイ・トンプソンの信頼を勝ち取り、西海岸にダイナスティを築いたカーHCのように即座の成功を手にできるのか。それとも、引退翌年の2013年にいきなりネッツのHCに就任するも、当時のエースだったデロン・ウィリアムズの力を引き出せず、わずか1年でブルックリンを去ることになったジェイソン・キッドの轍を踏むのか――。 その答えは現時点ではもちろんわからないが、はっきりしているのは、2020-21シーズン、ネッツが爆発的な話題を集めるだろうということだ。これほど興味深いチームに注目しないわけにはいかない。デュラント、アービング 、そしてナッシュという魅力的なトリオを揃えたネッツがどんな方向に向かっていくか、NBAファンは彼らの動向からしばらく目が離せないだろう。
杉浦大介:ニューヨーク在住のフリーライター。NBA、MLB、ボクシングなどアメリカのスポーツの取材・執筆を行なっている。『DUNK SHOOT』、『SLUGGER』など各種専門誌や『NBA JAPAN』、『日本経済新聞・電子版』といったウェブメディアなどに寄稿している。