コービー・ブライアントが悲劇的な事故でこの世を去ってから1年が過ぎた。世界中のバスケットボールファンに去来する思いは、コービーを失った悲しみは決して拭えないものであると同時に、生前コービーが見せてくれたプレイ、魂のこもった言葉、そしてバスケットボールへの愛は決して色褪せず、今でもそれぞれの心の中で生き続けている、というものではないだろうか。 コービーの逝去後、世界は新型コロナウイルスによって未曾有の事態に見舞われた。とりわけコービーが愛したロサンゼルスのあるカリフォルニア州は、世界的に見ても非常に多くの感染者数が報告されている。慈善事業にも積極的に取り組んでいたコービーのこと、目に見えぬ敵と戦い続ける住民や医療従事者たちを鼓舞するメッセージを発していたに違いない――。今回のコロナ禍においても、コービーがいたらと思いを巡らせた人は少なくないだろう。 誰もがコービーを想うこの日に、改めて輝かしい歩みを振り返る。
コービー・ブライアントが今なお多くの人を惹きつける理由の一つとして、常に挑戦者であったことが挙げられる。そうした姿勢によって偉大なキャリアを築いたのだが、時にそれは、屈辱から這い上がるための試練でもあった。 プロ1年目に出場した1997年のプレイオフでは、局面でエアボールを連発。シャキール・オニールが移籍し、自分が主役となった2004-05シーズンには、プロ入り以来初めてプレイオフ進出を逃した。2008年のNBAファイナルでは永遠のライバルであるボストン・セルティックスに完敗。キャリア晩年の2013年には、プレイオフ直前の試合でアキレス腱を断裂する大ケガにも見舞われた。 しかしそうした試練が、コービーをさらに強くした。
エアボールを連発した当日深夜、遠征先から戻ったコービーは、そのまま体育館に直行し朝日が昇るまでシュートの練習に励んだ。シャック移籍から5年後、レイカーズ不動のエースとなっていたコービーはチームを連覇に導いた。なお、2年目の相手は2008年に敗れていたセルティックスである。そしてアキレス腱断裂から約2年後、現役引退の一戦では60点を叩き出す一大パフォーマンスを披露したのだった。 コービーの挑戦はコートを離れたあとも続いた。引退から3年後の2018年、自身をモデルに制作したアニメーション作品「Dear Basketball」でアカデミー賞を受賞。後進育成のために「マンバ・スポーツ・アカデミー」も立ち上げた。さらには、自身のドキュメンタリー番組制作やシューズブランドを興す話もあった。そんな最中での事故だった。当日は娘ジアナのバスケットボールの試合に向かう途中だったという。将来を嘱望される選手だった愛娘をWNBA選手に、というのもコービーにとって“第2の人生”における大きな目標だったに違いない。
コービー・ブライアントと言えば“マンバ・メンタリティ”という言葉を想起する人も多いだろう。生前、コービーが契約していたナイキの公式サイトには、下記のような説明文がある。 「毎日、すべてのことにおいて「もっと良くする」を目指すことです。コービーはマンバ・メンタリティについて「常に最高の自分になろうと努力を続けること。昨日よりももっと良い自分になろうとし続けること」と話していました。短い間に見られる変化は微細だとしても、小さな積み重ねが大きな進歩を生み出します。コービーはそのような前進のための尽きない意欲を私たちに見せてくれました」 ※https://www.nike.com/jp/mamba-mentalityより引用
常に高みを目指していたコービーだが、それ故に周囲と軋轢が生まれることもあった。その最たる例がシャックとの関係だろう。寡黙でストイックなコービーと陽気でおおらかなシャックは、さながら水と油。当時は2人とも若く、コービーが21歳の時には「殴りかかる寸前まで行った」と、後にシャックとの対談で明かしている。2000年から3連覇を達成し、歴代屈指のデュオと言われていたが、2004年には袂を分かつこととなった。 無論、シャックはそうした血気盛んなコービーの度胸を高く買っていた。1年目のプレイオフ、エアボールを連発したコービーを見て「将来大物になる」と確信したという。そして2人の不仲が囁かれていた時でさえ、大事な試合前日の深夜に連絡を取り合うこともあった。もしかしたら、NBAで最も早くコービーの“マンバ・メンタリティ”を感じ取っていたのは、シャックかもしれない。
日本時間2020年1月27日早朝、衝撃のニュースが飛び込んだ。その一報で世界は悲しみに包まれた。当日試合のあったチームは現役時代の背番号にちなんで、8秒、24秒のバイオレーションによってコービーを弔った。幼少期からコービーに憧れ、自身がプロになってからはジアナがファンだったというホークスのトレイ・ヤングは、急遽8番のユニフォームを着てコートへ。24本のフィールドゴールを放って、45点を叩き出した。 「NBA Rakuten」では、その日は朝9時からMC MAMUSHI氏のコーナーを原宿のバスケットボールカフェ「coast 2 coast」にて収録予定だった。事前に用意していた企画は急遽変更。2006年にコービーが来日したエピソードやコービーへの想いなどを語ってくれた。そして当日の『DAILY9』でもコービーを弔い、週末には『俺達のNBA!!』の特別版『俺達のコービー・ブライアント』を緊急生配信している。
事故直前までコービーとやり取りをしていたのが、今のレイカーズを牽引しているレブロン・ジェームズだった。前日の試合で自身が持つ通算得点記録を更新したレブロンに対して、ツイッターで祝福。翌日朝も2人は電話で言葉を交わしている。レブロンが悲しい知らせを受け取ったのは、試合のあったフィラデルフィアからロサンゼルスに戻る飛行機の中だった。 全員が悲しみに暮れる中、レブロンは選手を集めてコービーに祈りを捧げたという。 そして事故後初の試合となった2月1日(同1月31日)のポートランド・トレイルブレイザーズ戦、24番のユニフォームを身にまとったレブロンは、ティップオフの前にマイクを握る。コービー、ジアナ、そして彼らを失い悲しむ世界中のバスケットボールファンに向けて、「彼のレガシーをチームメイトとともに引き継ぐ」と力強く宣言した。 その後、新型コロナウイルスの影響による中断を経て再開された2019-20シーズンで、レブロン率いるレイカーズはNBAファイナルへ進出。マイアミ・ヒートを破り、コービーがセルティックスを破った2010年以来、10年ぶりの優勝を成し遂げた。それから間もなくレブロンはインスタグラムで、ブラックマンバ・ジャージーとともに佇む自身の写真と、コービーへのメッセージを投稿した。 「誇りに思ってくれたらいいな、ブラザー!! 愛している。寂しいよ、チャンプ!! #BlackMamba 24・8・2❤️」
コービーは1996-97シーズンから2014-15シーズンにわたって、レギュラーシーズンで1346試合、ファイナルを含むプレイオフで220試合プレイしている。数多の名場面が思い出されるが、その中でもとりわけ際立っている5つの名勝負を紹介しよう。
コービーにとってマイケル・ジョーダンは、憧れであり、目標であり、そしていつか超えたいとさえ思っていた相手だった。そうした血気盛んなコービーが初めてジョーダンとしっかりマッチアップしたのが、通算3度目の対戦となるこの日の一戦である。ジョーダンの姿を想起させるフェイダウェイなどを披露し、チーム最多の33点を叩き出す。対するジョーダンも老獪なプレイでコービーを翻弄し36点をマーク。壮絶なスコアリングバトルを繰り広げた。
2002年のオールスターは、コービーの地元フィラデルフィアで行なわれた。ファン投票でウェストのスターターに選出されたコービーは、開始序盤から得点を量産。1988年にマイケル・ジョーダンが記録した40点以来のハイスコアとなる31点をマークして、初のオールスターMVPに輝いた。 しかし、前年のファイナルで76ersを破っていたこともあり、試合後のMVP授与式ではまさかのブーイングを浴びる羽目に。その後、コービーは2007、2009、2011年でもMVPを受賞し、史上最多タイとなる4度受賞。昨季のオールスターからは、MVPの名称も「コービー・ブライアントMVPアウォード」と改称されている。
ウィルト・チェンバレンが1試合100点を記録してから40年以上、前人未到の記録に最も近づいたのがコービーだった。この日の相手はトロント・ラプターズだったが、序盤からリードを許す展開だった。前半に26点をマークしていたコービーは、勝利のためにさらにギアを上げることを選択。すると、第3クォーターに27点、第4クォーターには28点を叩き出して、トータル81点。試合も122-104でレイカーズを勝利へ導いたのだった。この偉大な記録に関してコービーは、「記録達成よりも試合後に幼少期のアイドルだったマジック・ジョンソンから電話をもらったことの方が嬉しかった」と語っている。
キャリア4年目にしてファイナルの舞台で対峙したのは、ベテラン揃いのインディアナ・ペイサーズだった。2勝1敗で迎えた第4戦、足首を痛めて前の試合を欠場していたコービーは敵地で優勝に王手をかけようと奮起するも、延長突入後にシャックが6ファウルで退場処分に。大黒柱を失い窮地に立ったチームを救うべく、コービーは一段ギアを上げる。攻守でチームを牽引すると、1点リードの延長残り5.9秒で勝利を手繰り寄せるティップイン。当時、弱冠21歳。大舞台でも物怖じしない強心臓ぶりと、勝負強さを見せつけた。
現役最後の試合前、シャックから「50点取れ」と発破を掛けられていたコービーは、かつての相棒の期待をいい意味で裏切った。「コービーにボールを回せ!」というチャントがアリーナを包み込む中、期待に応えるようにコービーはシュートを放ち続ける。終盤には明らかに疲労の色が見られたにもかかわらず、怒涛の11連続得点で点差を詰めると、自身7年ぶりとなる60点に到達。チームも勝利を飾るなど、自らの引退に花を添えた。
コービーは超人的なプレイの数々で、誰からもリスペクトされる生き様で、世界中のファンに夢を与えてくれた。では、そんな彼にとって”夢”とはどのようなものだったのか――。最後に、2017年の引退セレモニーで娘たちに送ったメッセージを引用したい。 最後に娘たち、ナタリア、ジアナ、ビアンカ。君たちは、努力をすれば夢が叶うということはもう知っているだろう。それは誰もが知っていることだよね。でも、今夜ここで知ってもらいたいことがあるんだ。朝早く起きて努力しているとき、夜遅くまで起きて努力しているとき、「やりたくない、疲れてる」と思っていても努力するとき。それこそが夢なんだということをね。夢は結果じゃない、旅路なんだ。それを理解できれば、夢は叶うものではないということがわかるはずだ。夢は叶わない。その代わりに、もっと素晴らしいものを手に入れることができる。君たちがそれを理解できれば、僕が父親としての仕事をできているってことなんだ。 みんなありがとう、愛しているよ。マンバアウト。
コービー・ブライアント / Kobe Bryant ■身長・体重:198cm・96kg ■ポジション:SG ■背番号:8、24 ■生年月日:1978年8月23日 ■所属:ロサンゼルス・レイカーズ(1996~2015) ■出身:ペンシルベニア州フィラデルフィア ■出身高:ローワー・メリオン高校 ■ドラフト:1996年1巡目13位(シャーロット・ホーネッツ) ■個人タイトル:優勝:5回(2000~02、09、10年)、MVP:1回(2008年)、ファイナルMVP:2回(2009、10年)、オールスターMVP:5回(2002、07、09、11年)、オールスター選出:18回(1998、2000~16年)、オールNBA1stチーム:11回(2002~04、06~13年)、同2ndチーム:2回(2000、01年)、同3rdチーム:2回(1999、2005年)、オールディフェンシブ1stチーム:9回(2000、03、04、06~11年)、同2ndチーム:3回(2001、02、12年)、得点王:2回(2006、07年)、スラムダンク・コンテスト優勝:1回(1997年)、オールルーキー2ndチーム(1997年)