バスケの神様ことマイケル・ジョーダンってどんな人?

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プロフィール

マイケル・ジョーダン 生年月日:1963年2月17日 出生地:ニューヨーク州ブルックリン 身長:198センチ 体重:98キロ 所属:シカゴ・ブルズ/ワシントン・ウィザーズ 背番号:23/45 ポジション:シューティングガード(SG)

出生こそはブルックリンだが、ジョーダン一家はマイケルが幼児の頃にノースカロライナ州ウィルミントンに引っ越している。幼少期は父のジェームズとキャッチボールをすることを好み、野球選手を夢見る少年だったのだが、マイケルが11歳の時に庭にバスケットボールコートが設置されたことから、バスケットボールへと傾倒していく。1歳上の兄、ラリーと毎日1オン1を繰り返し競い合っていたマイケルは、NCAAのノースカロライナステイト大学とUCLAのファンとして成長していった。 レイニー高校(アメリカの高校は9年生から12年生まで)では9年生チームで大活躍し、10年生にして1軍チームに入れるのではないかと本人も周囲も期待していた。しかし身長が足りなかったことと、1軍だと控えになってしまうため2軍でしっかり出場してほしいというコーチの思惑から、1軍入りできず。その悔しさを胸に猛トレーニングに励んだジョーダンは、2軍で40得点試合を連発する活躍を見せた。翌年、10センチ以上身長が伸びたジョーダンは1軍チーム入りを果たし、数々の強豪大学からリクルートされるほどの大活躍をしたのである。

ノースカロライナ大学での活躍

伝説的ヘッドコーチのディーン・スミスが指導するノースカロライナ大学へと進学したジョーダンは、すぐさま頭角を表した。アトランティック・コースト・カンファレンスの新人王に輝いた1年目では、1年生ながらもその年のNCAAトーナメント決勝戦で決勝ジャンプショットを決め、チームの優勝に貢献。その時、相手チームのジョージタウン大学にいたのはNBAでも何度も対戦することとなるパトリック・ユーイングだ。 2年目、3年目と活躍し、3年生にして最優秀選手賞を獲得し、1984年のNBAドラフトにアーリーエントリー。全体3位でシカゴ・ブルズに指名され、リーグ入りを果たした。ちなみに1位はヒューストン・ロケッツのアキーム・オラジュワン、2位はポートランド・トレイルブレイザーズのサム・ブーイで、ブレイザーズはこの時すでに同じポジションにスター選手のクライド・ドレクスラーがいたため、ジョーダンを指名しなかったと言われている。

シカゴ・ブルズに入団、一気にスターへ

リーグ入りしてからは一気にスターダムへと駆け上がり、1993年までシカゴ・ブルズでプレイ。しかし3連覇を達成した1993年に、父親が殺人事件に巻き込まれるなど、精神的なダメージを受けていたジョーダンは突如引退を発表。そして驚くことに、1994年にMLBのシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を交わし、父の夢だったというメジャーリーガーになる挑戦を始める。が、1995年、メジャーリーグがストライキを決行していたことも影響し、ジョーダンは古巣ブルズでNBA復帰。 復帰した年こそはプレイオフ2回戦で敗退したものの、1996年から1998年まで2度目の3連覇を達成し、絶対的な選手としてリーグに君臨した。そして1998年に6度目の優勝を果たしたジョーダンは、1999年1月に2度目の引退を決意する。 2000年に、ワシントン・ウィザーズのオーナー陣に加わり、バスケットボール運営部門代表に就任すると、2001年には同チームで2度目の現役復帰。ウィザーズ在籍中はプレイオフ出場こそ果たすことはできなかったが、2003年には40歳を超えながらも40得点試合を記録するなど活躍を続けた。そして2003年4月16日、ジョーダンは現役最終試合に出場し、正真正銘の現役引退を迎えた。

マイケル・ジョーダンのプレイ

マイケル・ジョーダンのプレイと聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのがその脅威的な跳躍力だろう。空中で自由自在に動くその様から付けられた『エアジョーダン(Air Jordan)』の愛称は、バスケファン以外にも広く知れ渡っている。特に彼のプレイで人気があるのが、その跳躍力から繰り出されるダンクだ。1988年のオールスター・ダンクコンテストで披露したフリースローラインから空中を歩くように飛んだエアウォーク・ダンクは今でも伝説のダンクとして語り継がれている。 198センチと、長身センターが多く活躍していたリーグでは決して大きい方ではなかったジョーダンだが、身体能力の高さ、圧倒的得点力、突出した競争心を武器にバスケ史上最高の選手のひとりという位置まで登り詰めた。 ジョーダンが偉大な選手になり得た大きな要員として、彼のディフェンス能力の高さがある。大量得点を重ねるというイメージが強いジョーダンのプレイスタイルだが、ディフェンスでも彼の存在は脅威だったのだ。1988年には最優秀選手賞(MVP)に加え、最優秀守備選手賞(DPOY)を獲得している。度々比較対象として挙げられるコービー・ブライアントとレブロン・ジェームズも、DPOYだけは獲得できておらず、それだけでもジョーダンの偉大さがわかるだろう。 練習の鬼としても知られ、常に自分を進化させることに全力を費やした。キャリア中盤、身体能力が若い頃よりも落ち始めると(それでも十分高いのだが)、彼は果敢なドライブ中心なスタイルに加え、ターンアラウンドからのフェイダウェイジャンプショットを会得し、さらにオフェンス能力に磨きをかけた。

スコッティ・ピッペン、デニス・ロッドマンらチームメイト

ジョーダンのプレイを語る上で欠かせないのが、チームメイトのスコッティ・ピッペンの存在だ。1987年にブルズに入団して以来、めきめきと成長し、ジョーダンの右腕として活躍した。ジョーダンの1度目の引退中は、MVP級の活躍を見せ、チームを牽引。ブルズの6度の優勝全てに主力として活躍しており、ジョーダンとともに最強のワンツーパンチを結成した。 2度目の3連覇中はさらに、リーグ屈指のリバウンダーであるデニス・ロッドマンがチームに加わり、ブルズはより強力なチームへと変貌を遂げている。ジョーダンという絶対的な存在がいたからこそ、問題児とされていたロッドマンをコントロールし、見事なチームを作り上げることができたのだ。

語り継がれるマイケル・ジョーダン伝説

数あるマイケル・ジョーダン伝説に共通するポイントとして、彼の競争心がある。とにかく負けず嫌いなのだ。どんな些細なことでも、ジョーダンはそれを利用して、闘争心へ変えることができる。試合当日の朝刊に、対戦相手のヘッドコーチが少しでも「抑える」といった類いのことを口にしたのが掲載されれば、ジョーダンはそれをモチベーションに40得点、50得点を叩き出す。 1997年6月11日、ブルズとユタ・ジャズによるNBAファイナルの第5戦、ジョーダンはとてつもない体調不良に襲われていた。原因はインフルエンザ、食中毒など多説あるが、脱水症状を起こし息をするのさえも辛い状態で、ジョーダンは試合に臨んだのだ。普通の選手なら欠場してもおかしくない状態ながらも、ジョーダンは勝ちたいという理由だけで出場を強行し、38得点、7リバウンド、5アシスト、3スティール、1ブロックの活躍でブルズを90-88の勝利へと導いた。 ジョーダンが全力でプレイするスタイルは練習でも変わらなかった。ブルズ時代の練習はとても競争性が高く、言い争いになった結果ジョーダンがチームメイトの顔面をパンチした話も有名だ。1995年のトレーニングキャンプで、ジョーダンは当時のチームメイトであり、現在ゴールデンステイト・ウォリアーズのヘッドコーチとして活躍するスティーブ・カーと対戦していた。お互いトラッシュトークが続いていたところ徐々にエスカレートし、押し合いになり、殴り合いへと発展。最終的にカーは目の周りに青あざができてしまうほどだったが、これをきっかけに両者の信頼関係は増し、カーは3連覇の立役者のひとりへと成長した。 負けず嫌いなのはコート上だけではない。大のゴルフ好きとして知られるジョーダンだが、ゴルフでも当然その競争心を発揮する。1992年、ドリームチームの一員としてモンテカルロで練習していたジョーダンは、ヘッドコーチを務めていたチャック・デイリーとゴルフ対決をすることとなった。接戦の結果、デイリーが勝利したのだが、ジョーダンは次の日の早朝にデイリーのホテルの部屋に向かい、起きて出てくるまでドアを叩き続けた。そして再戦を申し込み、1打差で勝利したのだ。

マイケル・ジョーダンの勝負強さ

ジョーダンのもうひとつの突出した才能といえば、その勝負強さだろう。試合終盤、勝敗のかかったショットを何本も沈め、相手チームのハートを打ち砕いてきており、大学時代に1年生にして決勝ショットを決めていることからもそれがわかるだろう。 特にクリーブランド・キャバリアーズ相手には滅法強く、プレイオフでは2度に渡って決勝ブザービーターで相手をシリーズ敗退へと追い込んでいる。1回目は1989年のイースタン・カンファレンス1回戦の第5戦。99-100とブルズが1点負けている状態から、ジョーダンはフリースローライン近辺で相手ディフェンダーのクレッグ・イーローの上からジャンプショットを決め、見事逆転勝利。 2回目は1993年のイースタン・カンファレンス・セミファイナルの第4戦。101-101の同点から、再びキャブズ相手にフリースローラインからのジャンプショットをねじ込み、勝利を呼び込んだ。 そして最も有名なのは1998年のNBAファイナルの第6戦で、ユタ・ジャズ相手に決めた決勝ショットだろう。85-86と1点差で負けている状態での残り21秒、ジョーダンはカール・マローンからボールをスティールすると、自らボールを運び、残り5.2秒で優勝を決める決勝ジャンプショットを決めたのだ。

心に刺さる!マイケル・ジョーダンが残した名言

いくつもの名言を残してきているジョーダンだが、そんな名言にも彼の性格が表れているのがわかるものがいくつかあるので紹介しよう。まず有名なのが、ナイキのCMにも使用されたこちらだ。 “I've missed more than 9000 shots in my career. I've lost almost 300 games. 26 times, I've been trusted to take the game winning shot and missed. I've failed over and over and over again in my life. And that is why I succeed.” 「キャリアを通して9000本以上のショットを外してきた。300試合以上負けている。26回、決勝ショットを任されながらも外している。人生において私は何度も、何度も失敗してきている。だからこそ成功した。」 https://www.youtube.com/watch?v=45mMioJ5szc ジョーダンの勝負強さ、競争心の強さはこの失敗を恐れないところから来ていると言っても過言ではないだろう。 “I can accept failure, everyone fails at something. But I can't accept not trying.” 「失敗することは耐えられるが、挑戦しないことには耐えられない。」 “The key to success is failure.” 「成功への秘訣は失敗することだ」 “I've never lost a game I just ran out of time.” 「試合に負けたことは一度もない、時間がなくなっただけだ。」

マイケル・ジョーダンが打ちたてた受賞歴/NBA新記録

ジョーダンが作った記録は数多い。近年でも選手が偉業を達成すると、「マイケル・ジョーダン以来の~」という前置きが入ることが度々だ。ここでは彼の数々の受賞歴/NBA新記録を見てみよう。 ・NBA優勝 6回(1991、1992、1993、1996、1997、1998) ・NBAファイナルMVP 6回(1991、1992、1993、1996、1997、1998) ・NBA MVP(1988、1991、1992、1996、1998) ・NBAオールスター 14回(1985-1993、1996-1998、2002、2003) ・NBAオールスターMVP 3回(1988、1996、1998) ・オールNBA1stチーム 10回(1987-1993、1996-1998) ・NBA最優秀守備選手賞 1回(1988) ・NBAオールディフェンシブ1stチーム 9回(1988-1993、1996-1998) ・NBA最優秀新人賞(1985) ・NBA得点王 10回(1987-1993、1996-1998) ・NBAスティール王 3回(1988、1990、1993) ・NBAスラムダンク・コンテスト優勝 2回(1987、1988) ・NCAA優勝 1回(1982) ・大学最優秀選手賞(1984) ・オリンピック金メダル 2個(1984、1992) ・ネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂入り(2009) ・キャリア通算平均得点:30.1(歴代1位) ・キャリア通算プレイオフ平均得点:33.4(歴代1位) ・NBAファイナル シリーズ平均得点:41.0(1993 歴代1位) ・プレイオフ史上最多得点(63得点) ・最年長での1試合40得点(40歳)

数字以外で与えた功績

数々の記録を紹介してきたが、ジョーダンの残した功績は数字だけに留まらない。プロ選手が解禁となった1992年のバルセロナ五輪で、ドリームチームの一員として参加したジョーダンは、これをきっかけに一気に世界的スーパースターとなる。世界中がこのジョーダン率いるドリームチームに熱狂し、NBAはアメリカだけでなく世界の人気リーグとなったのだ。 これをきっかけに各国はバスケットボールに注力するようになり、1992年当時NBAに21人しかいなかった海外出身選手の数は、2018-19シーズンでは108人にまで伸びるほどの成長を遂げている。 日本もその例外ではない。ジョーダンの存在は、日本でもNBAブームを巻き起こし、来日した際にはテレビ番組で特集を組まれ、NBA選手がテレビのCMに出演するまでに至った。 さらにスポーツ界におけるファッション性を引き上げたのもジョーダンだ。今では当たり前となった膝丈のハーフパンツだが、80年代までは短いものが主流だった。ジョーダンは下にノースカロライナ大学時代の練習用パンツを履くという理由から、通常より長めのハーフパンツを特注。そしてそれが一気に広まり、今ではそれが主流となっている。 ポップカルチャー界にもその影響は及んでおり、ジョーダンは子供達の間で大人気の存在となっていった。1996年には、アメリカの子供達の間でディズニーと人気を二分するルーニー・テューンズのアニメと実写をかけ合わせた映画『スペース・ジャム』に主演。マイケル・ジョーダンとバッグス・バニーの共演が話題を呼んだ。今でもこの映画は人気が高く、2021年にはレブロン・ジェームズ主演で続編が公開されることまで決まっている。

高年俸

今でこそトップ選手の年俸が数千万ドル(数十億円)になることが当たり前になっているが、ジョーダンがリーグ入りした頃の年俸はまだまだ低かった。ルーキーの時の年俸が55万ドルで、4度目の優勝を果たした1995-96シーズンでさえ385万ドルで、リーグのトップ30にすら入らない数字だ。しかし1996-97シーズンに当時のリーグ記録となる3014万ドルの契約を交わし、翌シーズンにはそれをさらに上回る3314万ドルでサイン。 今でこそステフィン・カリーの3745万ドルに抜かれているが、インフレを考慮するとジョーダンの当時の契約は現代で5000万ドルを超える計算になるとされている。 ジョーダンのNBAでの総収入は9380万ドルだが、これはスポンサー契約などが含まれていない。ナイキを始め、ジョーダンはゲータレード、マクドナルド、オークリー等、数多くのスポンサー契約を現役中に獲得し、現在の広告塔としてのスポーツ選手像を確立した張本人だ。ジョーダンの現在の総資産は19億ドル(約2050億円)を超える計算で、レブロン・ジェームズ、ステフィン・カリー、ケビン・デュラントといった現在のスター選手の収入を全て足しても、ジョーダンには及ばないほどだ。

AIR JORDAN

今でもジョーダンの影響力を目の当たりにできるのが、ジョーダンブランドの存在だ。元々はアディダスのファンで、NBA入りする際にはアディダスとの契約を望んでいたジョーダンだったが、アディダス側がセンタータイプの選手をプッシュしたいという理由から契約には至らなかったという過去がある。ジョーダンはナイキと契約を結び、そこでジョーダンとナイキという無敵タッグが生まれたのだ。 赤黒のAir Jordan 1が当時のリーグのユニフォーム規定に反していたため、ジョーダンとナイキは罰金を支払いながら履き続けたという伝説は有名だが、真偽のところは不明だ。実はジョーダンは当初ナイキのAir Ship(エアシップ)を履いており、リーグから着用禁止とされたのはこのシューズではないかという説もある。 どちらにせよ、これまでとは違った派手な色使いのデザインと、罰金を払ってでも履いているという戦略は話題を呼び、エアジョーダンは大成功を収めることとなる。引退した今でも毎年新しいモデルが発売され、リーグでジョーダンブランドのシューズを履く選手はとても多い。最近では2019年のNBAドラフトで1巡目9位でワシントン・ウィザーズに指名された八村塁選手も、ジョーダンブランドと契約したことが発表されている。

現在のマイケル・ジョーダン

私生活では、1989年に結婚した妻のファニータとの間に長男ジェフリー、次男マーカス、長女ジャスミンの3人の子供をもうけている。しかし2006年に離婚し、2013年に現在の妻であるイヴェット・プリエトと再婚している。2014年2月には双子の娘、ヴィクトリアとイザベルが誕生している。さらに2019年5月には、長女のジャスミンが、同じシラキューズ大学出身で元NBA選手でもあるラキーム・クリスマスとの間に息子が生まれたことを発表しており、ジョーダンは初孫をもうけている。 ジョーダンブランドの他に、現在も多くのスポンサー契約を結んでおり、数々のビジネスベンチャーにも関わっている。2017年にはMLBのマイアミ・マーリンズの共同オーナーグループに投資するなど、ビジネスに対する意欲的な姿勢は現役さながらだ。 引退後もこういったビジネス面での活躍が続いているジョーダンだが、現在はシャーロット・ホーネッツのオーナーを務めている。ジョーダンは2006年にリーグに加入したシャーロット・ボブキャッツの共同オーナーの一員となり、2010年にはボブキャッツを買収し、筆頭オーナーに就任。NBA史上初となる元選手の筆頭オーナーだ。その後チームは名前を変え、現在に至る。

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アメリカ・ニュージャージー州生まれ。インターネット・雑誌・テレビ等の媒体で活動。記事のライティング以外にもNBA解説、翻訳、同時通訳なども行なっている。2017年には書籍『コービー・ブライアント 失う勇気 最高の男になるためさ!』(東邦出版)を翻訳。3年前からNBAの取材をスタートし、その英語力を活かし数々のNBA選手のインタビューや通訳をしている。

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