ビンス・カーターがいなかったら、ラプターズはバンクーバー(現メンフィス)・グリズリーズと同じ道を辿っていたかもしれない。集客に苦しみ、財政難に陥り、フランチャイズを早々にアメリカへ移転。あの時カナダから2チームとも姿を消していたら、ラリー・オブライエン・トロフィーが北の国境を超える日は、もう数十年遅れていただろう。いや、もしかしたら永遠に来なかったかもしれない。 1998年にカーターがラプターズへ入団したことにより、トロントの街は一変した。トロントは伝統的にNHLとアイスホッケーの街。その土地に、カーターとラプターズはバスケットボールの基礎を造り上げ、NBAという新たな文化の種を蒔き、それが後に大輪の花を咲かせたのである。 カーターが世界中にその名を轟かせたのは、プロ2シーズン目となる2000年2月のことだった。初めて参加したスラムダンク・コンテストでぶちかました、リバースの360ウィンドミル。これまで誰も目にしたことのない驚異的な一撃に、人々はとてつもない衝撃を受け、『TNT』の中継で解説を担当していたケニー・スミスは、興奮して“Let's go home!(もう優勝は決まったので「家に帰ろう!」)”と繰り返し何度も叫んだ。まさしく超弩級の一発だった。 僕はスポーツ中継を一人でテレビ観戦している時、例えスーパープレイや大逆転劇を目撃しても、大きなリアクションはしない。と言うかできない。誰も見ていないにもかかわらず、なんとなくこっ恥ずかしいのだ。そんな自意識過剰な小心者を、思わずソファーから立ち上がらせ、大声を上げさせたのが、あのダンクだった。あんな経験は、これまでの人生で数えるほどしかない。
金字塔となるダンクを決めてからちょうど1年後の2001年2月、カーターフィーバーに湧くトロントを取材で訪ねた。スポーツ総合誌『Sports Graphic Number』の仕事で、企画の内容は、ラプターズとNBA、そしてカーターがトロントに根を下ろして数年が経ち、街はどのような変貌を遂げたのか、というもの。実際に掲載された記事のタイトルは、“[ビンス・カーターのいる街]トロント「もう一つの国のNBA」”。ライターのN氏と担当編集者G氏の3人で、極寒のトロントを数日間うろついた。 移民の街、トロントにある日突然降臨した“ハーフマン・ハーフアメイジング”は、瞬く間に人々を虜にした。街のあちこちにカーターを起用した広告のポスターが貼られ、豪快なダンクをひと目見ようとアリーナには大勢のファンが詰めかけた。トロントにやってきて間もないアメリカ人の青年が、スターどころか街のシンボルとなったのである。
『Number』のストーリーの主役はカーターではなく、あくまでもトロントであり、取材も移民コミュニティーとバスケットボールの関係性について多くの時間が割かれた。もとよりカーター本人のインタビューや一対一のポートレイト撮影はセッティングされておらず、カーターの写真はエアカナダ・センター(現スコシアバンク・アリーナ)で開催されるホームゲーム1試合から捻出することになっていた。 通常と違い一般的なプレイ写真は必要なく、イメージカット寄りのものを1点大きく使いたい、そんな感じのリクエストだった。カーターのプレイを試合の最初から最後まで撮り続けたり、決定的瞬間をモノにすべく48分間気合を入れる必要もない。『Number』からはたまにあるオーダーのスタイルで、自由に撮れて気楽なぶん、あらかじめ決まったイメージやパターン、狙いといったものがないだけに、難しい側面もある。 とはいえ、やはり“カーター=ダンク”である。できればダンクを絡めたイメージも、念のため抑えておきたい。その数か月前にラプターズの試合をテレビで観ていた際、アナウンサーが「99-00シーズンのカーターの1試合平均ダンク数は約2本だった」と言ったのをなんとなく覚えていたので(今回調べてみたところ、正確には1.7本)、せめてそのうちの1本は撮影にトライしてみようと考えた。
試合当日、次のような流れで撮影に臨んだ。とりあえずカーターの姿を追い続け、できればあまり見たことのないイメージで、彼の特異な存在感を切り取ってみる。そして1本目のダンクは広めの画角を用い、周りの雰囲気込みでの撮影に挑戦する。 前半に手応えを掴めたら、後半はリラックスモードに切り替え、ファインダー越しにカーターの動きや表情を味わいながら撮影。あわよくば、2本目のダンクはゴールに可能な限り近いポジションから、なんならカメラの中のフィルムではなく、自分の眼に焼き付けることができたら……。 デジタルカメラがまだ普及していなかった当時、例えば新聞社のフォトグラファーの中には、フィルム現像に要する時間の都合上、前半だけ撮って帰る人も普通にいた。それゆえ、後半はゴールに近いポジションの確保にはさほど苦労しないだろうし、それ以前に、いくらカーターがいるとはいえ、カナダにあるアリーナのフォトグラファー席が、レギュラーシーズン中盤の試合で混み合っているとは考えにくかった。 はたしてカーターはどんなダンクを披露してくれるのだろうか。理想を言えば、パスカットから完全フリーでウィンドミルか360、もしくはアリウープをワンハンドで豪快にぶち込むなんてのも、失神レベルのド迫力ぶりだろう。何せ世界No.1ダンカーである。期待は膨らむばかりだった。
だが、邪な気持ちを神様は見抜いていたのか、なんとその日カーターのダンクはゼロ。当時にしては珍しく、試合を通して1本もダンクを披露してくれなかった。観客の中には、一生に一度の観戦で、カーターの超絶ダンクに胸を弾ませていた人も多かったはず。まあ単にアンラッキーな日に当たってしまっただけであり、こればかりは仕方ないが、どんなダンクであれせめて1本でも拝むことができていたら、アリーナに詰めかけた観客の満足度は数割アップしていただろう。 その日カーターがマークした得点は、ゲームハイとなる32点。カーターがボールを手にするたびに会場がざわめくという、他の選手ではまず見られない、ちょっと異様な雰囲気を味わわせてもらった。全盛期のカーターのプレイを地元トロントで堪能することができ、さらにはどんなダンクを見せてくれるのか胸を躍らせ、夢を見させてくれただけでも、今思えば貴重な体験だったと思う。
その後カーターは波乱万丈のキャリアを送ることになる。ヒザの故障、そしてフロントとの確執。最後は不満を置き土産に、自らトロントを去っていく。初凱旋試合ではチーム史上最大級のブーイングをくらい、その後10年間にわたり罵声を浴び続けた。 2014年、カーターはグリズリーズの一員としてトロントを訪れた。その日はラプターズの創設20周年記念イベントが執り行われ、タイムアウト中に1分弱の短いトリビュート映像がアリーナビジョンに映し出された。カーターのラプターズ時代のハイライト集と、思い出や感謝を伝える彼のスピーチ映像だった。 すると、最初はブーイングをする観客もいたが、それをかき消すように大勢の観客が、スタンディングオベーションでカーターの功績を盛大に讃えた。ベンチの前で手を上げながら胸を拳で叩き、Tシャツの裾で涙を拭うカーター。その姿がアリーナビジョンに映し出される度に、ますます大きくなる喝采の声。時がすべてを洗い流してくれたのだ。
ジャーニーマンへと変貌を遂げたカーターは、トータル8チームを渡り歩き、最後の地となったのがホークス。迎えた2019年10月24日、カーターのキャリアはNBA歴代最長となる22シーズン目に突入する。 そして今年2020年1月3日、4つのディケイド(1990年代、2000年代、10年代、20年代)にまたがってプレイしたNBA初の選手となった。こればかりは、デビュー年と引退年のタイミング(1999~2020年)という運的な要素が大きく絡んでくるだけに、2人目の達成者が出現する可能性は限りなく低いだろう。 2020年3月11日、新型コロナウイルスの影響で中断となる直前の試合が、カーターの最終ゲームとなった。ラストプレイは3ポイントシュート。22歳の時、胸に恐竜のイラストが入ったユニフォームを着てコートに立ち、プロ初得点となるショートジャンパーを決めてから21年と35日、7,705日。43歳になったビンス・カーターの、誰よりも長い旅路は、ついに終わりを告げた。 最後に、カーターが引退を表明した直後、ラプターズの公式アカウントが掲載したツイートを紹介させていただきたい。 Dear @mrvincecarter15,(カーターの公式アカウント) 国中の人々に、信じる気持ちを与えてくれてありがとう。 カナダにバスケットボールの基礎を築いてくれてありがとう。 あなたと一緒に、私たちも宙を舞わせてくれてありがとう。 一生の思い出を、ありがとう。 Love, Canada 写真オリジナル掲載:『Sports Graphic Number 519』 / 2001年4月5日号
大井成義:フォトグラファー兼ライター。1993年渡米、School of Visual Arts New York卒業。ポートレイトを中心にトラベルやスポーツ関連の写真を撮影する傍ら、国内外で個展を開催。ライターとしては、2000年代前半に『DUNK SHOOT』誌で「月刊ニックス」を連載、以来同誌にてコラムを執筆している。現在日本在住。