シカゴ・ブルズが最後に優勝を飾った1997-98シーズンを追跡したドキュメンタリー10部作『マイケル・ジョーダン:ラストダンス』が放映され、憎まれ役を厭わずに仲間を鼓舞し、チームを牽引するジョーダンの姿が話題を呼んだ。通算1611試合のNBA最多出場記録を誇るロバート・パリッシュは、ボストン・セルティックスの象徴だったラリー・バードのリーダーシップの方が好きだったと振り返った。 “ザ・チーフ”の愛称で親しまれたパリッシュは、1976年のドラフト1巡目全体8位でゴールデンステイト・ウォリアーズ入り。1980年に名門セルティックスへ移籍すると、先発センターとしてインサイドの要を担い、バードやケビン・マクヘイルとともに1980年代に計3回のチャンピオンに輝いた。シャーロット・ホーネッツでの2年間を経て、キャリア21年のラストイヤーとなる1996-97シーズンをブルズで過ごしたが、最終的に優勝するこの年の出来事を『CLNS Media』の『Cedric Maxwell Podcast』で明かした。 ある日のスクリメージで、パリッシュらセカンドユニットのチームが、ジョーダンらの主力組に4連続で勝利。これにエースのジョーダンが腹を立てた。しかし、当時33歳のジョーダンに対し、同43歳のパリッシュはベテランとして言い返したという。 「彼に対して毅然とした態度をとれる人間がいないから、私が彼に立ち向かった。そうしたら、彼は『気をつけないとぶっ飛ばすぞ』と言った。『私はお前を恐れていない。もっと最悪のヤツらと一緒にプレイした経験がある。お前は私に恐れをなしているのか?』と返してやった。彼は顔に平手打ちを食らったかのような表情で私を見ていたよ。(3年目の24歳だった)ディッキー・シンプキンスは、私がマイケルとそんな風に口を利いているのが信じられないようだった」 パリッシュが11年間在籍したセルティックスには、バードという絶対的な存在がいた。パリッシュから見て3歳年下だが、バードのリーダーシップは理想的だったとジョーダンと比較しながら回想している。 「言うまでもなく、ブルズではマイケルが序列の一番手だ。知っての通り、彼のチーム。周囲は彼がやりたいことをやれるようにしていた。選手は誰もが独自のスタイルを持ち、チームを牽引する方法を持っている。マイケルの場合は、チームメイトを挑発してやる気を煽った」 「ラリーは私たちのリーダーで、セルティックスでみんなの手本だった。ボーカルリーダーではなく、その背中でどうプレイすべきか仲間に語った。ラリーのスタイルと哲学が最高のリーダーを作ると思う。どちらのリーダーシップも尊重するけど、私はラリーのスタイルをより好むね。トラッシュトークでけんか腰な態度を取るマイケルは損な役回りだったかもね(笑)」 1996-97シーズンのブルズはレギュラーシーズン69勝を挙げ、NBAファイナルでユタ・ジャズを下して2連覇を達成。パリッシュは4個目のチャンピオンリングを手にして、自身の花道を飾った。