初めて撮ったNBA選手。純粋で真っ直ぐな眼差しを向けたコービー・ブライアント【大井成義コラム vol.1】

1998年春、海を渡って届いた撮影依頼

渡米を決意した理由のひとつは、マイケル・ジョーダンの全盛期のプレイを少しでも多く見たいからだった。 1993年、フォトグラファーのアシスタントを始めて3年が過ぎ、“独立”という2文字がチラつく時期を迎えていた。だが、元来人見知りな性格ゆえ、この仕事に向いているのかどうか自分でもわからなく、思い悩む日々だった。バブルの崩壊により不景気風が吹き始めていたこともあり、普通に独立してもいろんな意味で厳しい現実が待っていることは目に見えている。 ならばと、悩んだ末にたどり着いた答えは、ずっと興味を抱いていたファインアート・フォトグラフィーを学ぶべく、アメリカのアートスクールに留学するというもの。そうすれば、大好きなジョーダンのプレイをより多く目に焼き付けることもできる。 住む街は、入学先の学校との兼ね合いからニューヨークとなった。シカゴに比べるとブルズの試合を観る機会は減るが、そこは割り切るしかない。 1993年9月、期待と不安を胸に海を渡った。そのちょうど一か月後、ジョーダンが引退を表明。目の前が真っ暗になったのを覚えている。

90年代のNBA人気をけん引したマイケル・ジョーダン(左)と、熱狂的なニックスファンとして知られる映画監督のスパイク・リー。筆者は後に突撃インタビューを敢行している

ジョーダンがコートから姿を消したことにより、それまで煮え湯を飲まされ続けてきた強豪チームにチャンスが巡ってきた。なかでも強烈な輝きを放っていたのが、ニューヨークをフランチャイズとするニックス。21年ぶりの王座獲得に向け、パトリック・ユーイング、ジョン・スタークス、チャールズ・オークレーといった猛者らが、日夜大量のアドレナリンを放出していた。 ニックスがNBAファイナルまで進み、あと一歩のところで優勝を逃した1993−94シーズンが終わる頃には、立派なニックス中毒患者に。あまりの症状の重さに、その後NBA専門誌の『DUNK SHOOT』で「月刊ニックス」と題する闘病記をスタートさせることになるのだが、その話は別の機会にでも。   アートスクールを卒業して数年ぶりに日本へ帰省した際、仕事で知り合ったライターさんの紹介でポートフォリオを見せに伺ったのが、スポーツ総合誌の『Number』である。写真に対するこだわりが非常に強く、特にポートレイト写真のクオリティーの高さは秀逸の一言。いつかこんな雑誌で仕事ができたらなあと常々思っていた。 その『Number』編集部から国際電話があったのは、1998年の春のことだった。 「ロサンゼルスでレイカーズのコービー・ブライアントを撮影していただけませんか?」 そんな内容だったと思う。憧れだった雑誌からの仕事依頼、さらにはプロ2年目ながら、将来のスター候補と目される選手のポートレイト撮影。二つ返事で引き受けたものの、嬉しさや驚きよりもプレッシャーのほうが断然大きく、気が重かったのも確かだ。

レイカーズから与えられた時間は、わずか数分

撮影は当時レイカーズが練習用施設として使用していたロサンゼルス・サウスウエスト大の体育館エントランスで行うことになった。レイカーズのチーム広報から与えられた時間は、たしか3分とか5分程度。撮影する側からすれば圧倒的に物足りないが、後に海外の著名人の撮影ではままあることだと知った。 当時はまだデジタルカメラが普及しておらず、すべてフィルムでの撮影だった。モノクロはもちろん、カラーもネガで撮影し、自宅のアパートに造った暗室でプリントを仕上げていた。常用カメラは、ブローニーサイズのロールフィルムを使用する中判のペンタックス6×7(実際の撮影画面は55mm×70mm)。“バケモノみたいに大きいペンタックス”から、付いた渾名が“バケペン”。 与えられた時間こそ短いものの、三脚は使わず手持ちでの撮影だし、モノクロとカラーの一番長いブローニーフィルム(21枚撮り)を1本ずつ、計2本は撮れるだろうと踏んでいた。古くてクソ重いバケペン2台に2種類のフィルムを装填し、例えようのない緊張感を覚えながら、ライターさんとコーディネイターさんの3人でコービーが姿を現すのを待った。 午前の練習が終わり、選手や関係者たちがぞろぞろと出てくると、広報の女性がコービーを連れてきた。テレビで見る印象より全然でかい。簡単な挨拶の後、さっそく屋外に連れ出し、急いで撮影に取り掛かった。

レンズに向けられたコービーの視線は、純粋でどこまでも真っ直ぐだった

西海岸の太陽が燦々と降り注ぐ中、まずはモノクロでどアップのポートレイト。背景には前夜宿泊したホテルから借用してきたバスタオルを使用した。 とにかくテンパっていたのだと思う。あたふたしていたこともあり、アップの撮影中に指示した言葉で覚えているのは、「真っ直ぐレンズを見てください」ぐらいで、あとはどう撮ったのかほとんど記憶にない。コービーの純粋でどこまでも真っ直ぐな眼差しだけが、強く印象に残っている。 今思い返してもなぜそうしたのかはわからないが、モノクロフィルムを1本撮り切る前に、カラーネガフィルムの詰まったカメラに持ち替え、2~30m行った先にあるだだっ広い空間にコービーを急ぎ足で誘導した。そこでカラーを撮り始めた矢先、非情にも担当者から撮影の終了を告げられる。 体感的にはまだ3分も経っていない。慌てふためいた僕は、わざと大げさに驚いた表情で担当者を見返したが、相手は断固とした態度で首を横に振るだけ。もうほんの少しでいいから時間がほしい、そう切り出せる雰囲気でもなかった。

どことなく申し訳なさそうな表情をしたコービー

諦めてコービーに一言お礼を言うと、彼は「悪いな、けど撮影の終了は俺が決めたんじゃない、俺のせいじゃないからな」とでも言いたげな、どことなく申し訳なさそうな表情をして、傍らで待っていた友人と立ち去っていった。歩き去る後ろ姿を、念のため準備していたプラスチック製のおもちゃのカメラ『ホルガ』で数枚撮影。怒涛の数分間だった。 勝負のかかった大仕事で、手応えを掴めなかったどころか、想定していた最低限の枚数も撮れず、ヘタをしたら大コケしてしまったかもしれない――。露出の過不足はプリントでカバーできるとしても、撮影できた数少ない写真がピンボケや手ブレだらけだったら、完全にアウトである。 ロサンゼルスからニューヨークに戻る飛行機は、窓際の席だった。ひらすら落ち込んでいた僕は、約5時間のフライトの間、ため息を付きながら窓の外の風景や暗闇をただぼんやりと眺めていた。 翌日カラーフィルムを現像所に出し、モノクロフィルムは自分で現像した。神妙な面持ちで現像を終え、暗室の明かりを点けてフィルムを確認した時の安堵感は、今でも忘れられない。

当時キャリア2年目にして、オールスターのスターターに選出されたコービー・ブライアント

今年2月、コービーのヘリコプター墜落事故死の悲報を受け、『Number』編集部から写真を再掲載したいとの依頼があり、当時のコンタクトシートとプリントを倉庫のダンボールから引っ張り出してきた。22年ぶりのご対面である。   コンタクトシートを見て、改めて驚いた。撮影枚数の少なさに、である。モノクロのアップが7枚、カラーの引きが4枚、計11枚にオマケのホルガが5枚。そしてなんと、11枚のうち半分近くが微妙にピンぼけ……。 1枚ずつフィルムフォルダを入れ替える大判カメラならいざ知らず、バシャバシャ撮れる中判カメラを使用して、超有名選手を目の前にわずか11回しかシャッターを切れなかったとは何たることか。どうりでコービーが不憫そうな表情を見せたわけだ。 これまで様々な仕事をさせていただいたが、イレギュラーで数枚のみといった例を除き、中判カメラを用い、きちんとした形でのポートレイト撮影で、撮った枚数が2カット計11枚というのは間違いなく最少記録だ。ピンぼけを含め、焦りと緊張による手際の悪さが原因であり、反省点として後に活かせたとはいえ、それにしてもギリギリの撮影だった。 憧れていた雑誌から頂戴した初仕事の被写体が、さらには初めて撮った夢のNBA選手が、後に歴代屈指のスーパースターとなるコービー・ブライアント。本当に貴重な経験をさせていただいたなあと、『Number』には感謝しきりだ。「今となってはいい思い出」的な話に脳内変換できればいいのだろうけど、今でも思い返すにつけ、冷や汗が出てくる。 写真オリジナル掲載:Sports Graphic Number 443 / 1998年5月7日号

大井成義:フォトグラファー兼ライター。1993年渡米、School of Visual Arts New York卒業。ポートレイトを中心にトラベルやスポーツ関連の写真を撮影する傍ら、国内外で個展を開催。ライターとしては、2000年代前半に『DUNK SHOOT』誌で「月刊ニックス」を連載、以来同誌にてコラムを執筆している。現在日本在住。

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